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2013/02/21

野辺地町は斗南藩だった?

| by:佐藤(か)
出張で新幹線に乗車していた時のことでした。
新幹線にはトランヴェールという月間誌が置いてあります。
興味を引く記事は滅多に載っていないのですが、
この日はちょっと違いました。

2012年10月号のトランヴェールの記事でした。


野辺地町が「斗南藩(となみはん)」だったという、
衝撃的な記事を見つけてしまったのです。

歴史に詳しい人なら、常識すぎる内容かもしれませんが、
私にとっては、かなりセンセーショナルな内容でした。
「誰も教えてくれなかったぞ!」と、先生達の顔を思い出しながら、
帰ったらいろいろ調べてみようと思ったのです。

ページの一コマ。形状から野辺地町が斗南藩だったことが分かります。

■野辺地戦争(明治元年 1868年)
野辺地町の港湾近くに弘前藩士の墓があります。
ここに墓があること、弘前藩と戦争をしたこと、野辺地戦争という単語は
知っていますが、その背景などはまったく知りませんでした。
調べた結果を完結に述べると、野辺地戦争とは、
明治新政府軍の弘前・黒石藩と旧幕府勢力の盛岡・八戸藩との戦いのことで、
墓が示す通り一時は、弘前藩に多数の死者が出たものの、
結局、旧幕府勢力が降伏し野辺地戦争の終結を迎えるのでした。
野辺地戦争は戊辰戦争が派生した戦争だったようです。

■戦争の後(明治2年 1869年)
戊辰戦争の責任を取らされる形となった会津藩は、福島の領地を没収され、
かわりに与えられたのが、旧南部領(現在の青森県の東部側)だったのです。

翌、明治3年より、約4500名の会津藩士が旧南部領へ、
移住のためやってきます。その移住先の領地を「斗南藩」と命名したのでした。
3万石の領地とも言われた旧南部領でしたが、実態は7千石しかない領地でした。
会津藩士は、かわりに放牧などをして、生活基盤を作っていくのです。
斗南牧場というのはその時の名残のようです。

ページ内には、幕末の会津藩の様子が書かれています。

■廃藩置県(明治4年 1871年)
斗南藩として石杖を築きはじめた会津藩士たちですが、
さらなる歴史の変革が襲いかかります。
廃藩置県により斗南藩から斗南県へ、さらに同年中に、
弘前・黒石・七戸・八戸らと合併し青森県と置県されてしまいました。

廃藩置県となったことで、さまざまな制約が解かれ、
移住してきた会津藩士の多くが、故郷の地へ戻って行きました。
もちろん、青森県を新たな故郷と決めて永住した藩士もいたようです。



トランヴェールの記事は、戦争の渦中に巻き込まれた会津藩、
そんな運命に惑わされることなく、この青森で屈強に
生き抜いた会津藩士を紹介する記事でした。

雑誌に記載されていた通り明治初期に確かに野辺地町は
斗南藩だったということがわかりました。
しかし、戊辰戦争後の混乱や廃藩置県の実施、
その間約1年ちょっとという短い期間だったこともあり、
野辺地町が斗南藩だったという事実は多くの人にとって、
重要なファクターではなかったのかもしれません。

ひとまず、私の大いなる疑問はこれにて解決されました。

兎角、青森県人は我慢強いと賞賛されますが、
もしかしたら会津藩士のおかげかもしれませんね。

<後記>
NHKの大河ドラマ「八重の桜」は、動乱の幕末を駆け抜けていく
会津藩士の物語です。先日、三沢市先人記念館から、
ヒロイン新島八重の兄・山本覚馬(かくま)の写真が見つかった
ニュースを聞くと、確かに青森が所縁の地であったことが伺えます。


07:58 | 投票する (6) | コメント(0)