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    常夜燈と石畳のルーツ

    常夜燈と石畳のルーツ >> 記事詳細

    2010/11/07

    常夜燈と石畳のルーツ 野辺地の3つの時代

    Tweet ThisSend to Facebook | by:佐藤(か)

    野辺地の3つの時代
     

    1. 檜(ひば)木材輸送の時代 寛文期(1667~1672)
     
    江戸幕府ができたのち、都市としての機能がますます発達して各地で多くの木材が必要とされました。 特に檜木材は重宝され、下北地方では材木払い下げ政策により森林の開発が活発に行われます。 木材は文献上では、下北・田名部と表現されている箇所(実際は、脇野沢や川内もあったとも思われる)から、野辺地・泊・横浜を着岸地として運ばれていきました。 また、多くの請負人達も下北地方へ集まってきて、野辺地湊が賑わう兆しが見え始めた頃だと思われます。 しかし、檜木材は30年で枯渇してしまい、下北地方での木材払い下げ政策は終焉を迎えて行きます。
    (この時代の将軍は、4代将軍 徳川家綱。)
     
     
    2. 御用銅大阪回送の時代 約100年間野辺地湊が繁栄を極めた
     
    幕府が輸出用に取り扱った御用銅が年々増加したことにより、明和2年(1765)以降は、南部領内の尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)からの銅の駄送(牛で運ぶ事)が盛んになりはじめます。 尾去沢鉱山から野辺地町までは約136km、一人20頭の牛を引き連れて運んだようです。 野辺地町史からは「山元から野辺地までの距離は遠く、街道の状態も整備されていないという悪条件の中で、牛と牛方を確保しなければならない。 その駄賃も大きい経費であったから、宿場や沿道住民の協力がなければ達成されない事業であった。」と、当時の人々の助け合い精神を垣間見る事ができます。

    野辺地湊からの銅積船には大豆や海産物(干鮑、鱶鰭、煎海鼠)も積み出しされました。 これは、御用銅が盗難にあった場合に海産物を代替品として納めたからのようです。 こんな、100年間も続いた野辺地湊の繁栄も、江戸幕府の崩壊と共に終息していきます。

     
     
    3. 北海道交易の時代

    江戸幕府崩壊後、明治新政府は北海道開発を推進していきます。 野辺地湊も函館と、人や物資の輸送を増加させていきました。 当時、野辺地には8軒もの味噌醤油の醸造所があるほど、野辺地大豆の集荷があったようです。
    (野辺地納豆が美味しいのもこんな歴史があるからなのでしょうか…)

     
    このような時代を背景に、野辺地町には常夜燈や石畳が運ばれてきたようです。
    セミナーの本題でもある石の歴史を見てみましょう。


    22:40 | 野辺地の歴史